昭和50年06月24日 朝の御理解



 御理解 第55節
  「賃を取ってする仕事は若い時には頼んでも呉れるが、年を取っては頼んで呉れぬ。信心は年が寄る程位が付くものじゃ。信心すれば一年一年有難うなって来る。」

 成程例えば賃を取ってする仕事、若い時には元気もあるしまあ腕も確かであると、それで頼んでも呉れるけれども、年を取って来ると腕も鈍って来るし、五体も言うことを利かぬ様になります。だから賃を取ってする仕事はもう年を取って行くに従って弱って行くものであり、段々哀れになって行くものだと言う事です。けれども信心はそうじゃない。信心を頂いて行くと云う事は、もう年を取って行く程位が付くものじゃ。しかも一年一年有難うなって来ると云うのです。
 どうでしょうか皆さん、一年一年有難うなって行きよるでしょうか。もし一年一年有難うなって行っておると云う信心を頂いていなかったら、矢張り賃を取ってすると云うとと同じ事です。一週間ばっかり前に、いや五日位前でしたでしょうか、初めてお参りして来た方があります。福岡から夕べ月次祭にもお参っとりました。もうお婆さんです。所が中々子供達が孫達が付いて来ない訳です。それで大変難儀な問題は抱えて居られるのですけれども、こう云う事を言われる。
 先生私共が若い時にはね、もうこん位のおかげならもう本当に一修行させて貰うとおかげは頂きよったと云う訳です。一修行させて貰うと云う事は、まあ云うなら水を被ったり断食をしたりして、一生懸命お願いをした時代があったが、もうこんぐらいの問題なら本当ーおかげ頂きよりましたばってんから、もう此頃年を取るとそげな事も出来ませんしと云う事を言われます。
 是は例えば云うならば、賃を取って信心をしとる様なもんですね。こう云う信心ではほんにまちっと私が若いならば、云うならば合楽辺までお願いに来んでんよかばってんと云う様な事を言われた。話を聞いてから実はこうこう云う様な事でお願いに参りました。若い時には随分一生懸命信心させて貰うた。問題があるちゅうと私くしが一はまりはまって修行すると必ずおかげ頂いたと言われるです。
 だから一はまりはまって修行すると云うのが表行的な信心でおかげを受けて来たと云う事は、なら若い時に賃を取って仕事の様なもんです、だからそういうおかげはです、云うならば何と申しますか、只夢の様なおかげです。過去に於いてはあげなおかげ頂いたばってん、今日は淋しゅうて堪えん。年を取るに従ってお参りも出来んごとなるだろう。そしたら愈々おかげも受けられないと云った様な信心では。
 如何にはかない物かと云う事が解ります。何処までも信心はね所謂おかげを受けると云う事ではなくて、信心を頂くと云う事。その信心を頂き、その信心が血になり肉になって行くに従って心が開けて来る。豊かな心にもなって来る。云うならば信心が解って来ると云う信心ではね、楽しゅうなるです必ず。その楽しいと言う先に有難いと云うのが伴うです。稽古ですから、稽古をさして頂きますと、稽古が段々上達して参りますと、信心が楽しゅうなるです。
 先ず一つ皆さん信心が楽しゅうなる様な信心を、一つ身に付けて頂きたいと思いますね。是は昨日一昨日でした。まあー教会名を云うと何ですけれども、言わにゃ実感が出んから申しますが、あのー柳川には二つの教会が御座います。柳川教会と不知火教会と云うのが橋を挟んで小さい町ですけれども、二つの教会がある。一つは久留米手続きの昔からある教会です。そして二十年ばかりなりましょうか、甘木関係から出られ時には大変なやはり問題がありましたんです。
 昨日一昨日参って来た若い青年男女でしたけれども、此処に参って来るなりです、二人とも立派な器量も良いし中々あのう感じの良い若者でした。先生私共二人はどうしても結婚したいと思います。どうぞお許しが頂けるものでしょうかと云うのです。で私しは貴方方は私が見た所似合いのカップルだし、素晴らしいじゃないですかと言うた所が、所が両方の親達が反対すると云う訳です。
 どうしてですか貴方達とてもよかあのう似合いの夫婦と思うですがねと私が申しましたら、ところが信心頂いとるばっかりに結婚が出来ませんちゅうんです。それがね柳川教会と不知火教会の信者です。だから親先生にお願いさして頂いたら、他所の教会の信者ならのうと云わっしゃったと。私はそれを聞いてからもう本んにもう本当に信心が邪魔になっとると思いましたね。
 他所の教会の信者なら良かばってん、本人達の良かつじゃなくて、只云うならばそれこそ仇の様に思うとる相手の教会の信者じゃからいかんと云う訳でしょうね。一つまぁお繰合わせを頂いて、先ず第一あなた方のお父さんのお母さんだけでなくてその先生の心が上にお繰合わせ頂かにゃいけんですねと、言うて話した事でした。もう私しはこう云う信心に出したらもうしまいだと思うですね。信心も信心が返っておかげの邪魔をする。けれども人事じゃありません。
 私共も信心頂いておると言う事が返ってじゃまになる様な事ではいけません。私くしが信心でん頂いとらんなら言う事はいう言いたいけれども、信心しとるばっかりにぐうぐう云うて耐えとると云うごたる人がありますよ。そのぐうぐう云うて耐えとるとがいかんとです。その事が有り難う受けさして頂く稽古じゃなければ。私くしは今日は此処のところ、賃を取ってする仕事はと仰るところをです、只おかげを頂くと言う信心ではと云う風に聞いて頂きたいです。
 御利益目的だけの信心では、それこそ一はまりはまって修行でもさせて頂くと言う様なです、成程それで神様を揺り動かす様な信心さして貰うて、そりゃ例え金光様じゃなくてもです、でくの棒を拝んでもです、木立一本相手に拝んでもです、そういう一心不乱の信心をすりゃ、奇跡位現れますよね。我心に神が御座るからおかげになると仰るのだから、信心に依って教えを頂いて自分の心が開けて来る。
 その事に依っておかげが現れて来ると云うおかげはです、それこそ年を取るほど有難うなって来ると云うのは、あの事頼みもせんのに拝みもせんのに、神様勿体ないこの様なおかげを頂かせて頂いて、有難いと云う事になるのです。信心と云うのは願うたからおかげになると言うおかげから、願わんでも頂けるおかげになって来にゃいけんです。そこでです思う様におかげを頂くと云う事はです、願い通のおかげを頂くと云う事は、そりゃ本当なまだ本当な事じゃない。
 願うても願うてもおかげにならん、何処に自分の信心の狂いがあるだろうか。間違いがあるだろうか。何処に自分の信心の足りない所があるだろうかと、自分と云うものを本気で見極めさして貰うて、成程これではおかげが受けられん筈だと云う。是も先日或教会の先生です。もう永年お道のお取次をなさっておられるけれども、仕事片手間にそのう家で内職なさって居られるそうです。所謂信者があまり居ない訳です。まぁ話を聞くと実に金光様の先生も、是では哀れだなと私しは思ったんですけれどもね。
 或お願いをなさいました。そしてそのなんですか碁やら将棋やらが大変上手な先生、と云う事を前にその方の事を聞いとりましたがね。だからお広前に例えばそのう信者がお参りして来るじゃなくしてから、碁将棋の相手の人が拝みに来るとじゃない、先生いっちょどうのち云うてからやって来る。そうするとその碁将棋の相手をしてやんなさる訳です。で拝んで帰るちゅう訳ではない、それこそ百円のお賽銭も上げて行かんとですそげんとは。私はその方のお取次さして頂きましたらね。
 こうやって横寝しちゃるです手枕でですね。そして足元にある何かを足でこうこうやって、直しよんなさる所を頂きました。自分な横寝しながらですよ。そしてそのおかげば手ではない足でこうこうやってあっちさんやろうごとしよんなさる。是では矢張りおかげが頂ける筈がないと思うんです。自分が先ず姿勢を正さなければ、先ず自分が座り直さなければ。だから楽をしながらおかげを受けると言った様な。
 例えば信心ね正しいです。ね。只今申します様に右と願えば左、左と願えば右と云った様な時にです、これ程間違いのない神様を拝まして頂きよっておかげにならんのは、これはこちらに何処か狂いがあるんだ間違いがあるんだと、気付かせて頂く様な信心と云う意味なんです。そこから信心が解って来る。其処から日々の改まりと言う事が、有難いと言う事が解って来る。
 信心は成程本心の玉を研いて行くもんだと云う事も解って来るんです。改まって行けれる内に窮屈だと思っている様な中に、窮屈どころかそれが返ってその窮屈な事が有難い事になって来る。これもまあ今毎日ここにお参りしておる或御信者さんです。他所の教会で五十五年間信心、子供の時からさせて頂いた。先日も参って来てから、私しはもう私しもう助けちゃ頂いとると言う。
 助けて頂いとるから、決して〇〇教会の事は御恩は忘れんけれども、先生私は五十五年も信心しよったばってん、あなたが私に畦道のごたる信心しか教えとらじゃったと言うたと云う。今合楽に参らせて頂いとるが天地に繁る大道と云うか、大きなこう云う道があると云う事を、初めて合楽に御神縁を頂く様になって解らして貰うた、これは先生一っ時ばかり私くしは合楽にお参りさせて頂いて。
 そういう天地に繁る大きな道を体得したいと云うて、先生に話したら先生も快う、しっかり信心の稽古をまぁして下さいと言う意味の事を言われたと言う事を聞きました。まあ畦道位の道でも教えられりゃ良いですけれどもです、そのそう言う一つの道すらも教えられないと云う様な信心。それこそ相手が〇〇教会の信者じゃなからにゃ、この結婚は許しても良いけれども、他所の信者だからのと云われた様な、そういう例えば狭い道と云うかもう行き詰まってしまった様な道を感じがしますね。
 皆さんこれはもう心してなら合楽に参っとるから、その方が言われる様に天地の大道をかっぽすると云う様な、信心に出ておるかどうかと云う事を確かめねばいけません。只御利益目的のお参りじゃないかと、云う事を一つ見なければいけません知らなければ。どう言う大きなものでも引っ張り込んで行けれる、大きな道でなからねばいけません。自分だけがやっとかっと通れると言う様な畦道の様な信心ではいけません。
 とにかく私しがもちっと若いならばです、修行一つもさして頂いてこん位の問題は昔は簡単におかげは頂きよったけれども、年を取ってもうそう言う修行も出来ず、本当に残念な事だと云う様なです信心ではもう信心ではないと。それこそ自分の心が一年一年有り難うなって行ってです、願いもせん頼みもせんとにも拘らず、神様はこの様なおかげを下されて有り難しもったいなし、と云う様なおかげの頂ける様な信心を、皆さん目指さなければいけないと思います。
 云うならば信心の歓びに浸って居えれると言う信心をしなければいけません。しかもその信心の歓びと云う物が、もう愈々深うなり広うなり、それこそ一年一年、年を取るに従って位が付いて来ると云うのはそういう事じゃないでしょうか。位が高うなりゃ給料も高うなるです。位が高うなりゃおかげの範囲も広くうなるです。一年一年位が付く様な信心を、一つ身に付けて下さって皆さんが、一年一年有難うなって行く様な信心を、愈々身につけて行かなければいけない。
 信心がお邪魔になる。信心が重荷になると云った様な信心ではいけません。ほんにもうこのおかげが頂きたいばっかりに眠かばってん、しるしかばってんと信心が重荷になる様じゃいけん。合楽に向こうて来る、それこそいそいそとしてお参りが出来る。足軽々としてお参りが出来る。銀行に金借りに行くとじゃない。銀行に金ば預けげに行く気持ちで信心させて頂くと有難いですね。
   どうぞ。